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「高野豆腐のお導き」?

先日夕方、高野豆腐を煮ていると、玄関のチャイムが鳴り、
「どなたですか?」

 

という私の問に答えた女性の声がよく聴き取れませんでした。

 

もう一度聞くのも面倒だったので玄関を開けると、
そこに、いたのは、久々の「エホバの証人」勧誘の女性二人組。
毎度のことで、その雰囲気ですぐに分かりました。
先輩格と思しき女性は、開口一番、
「いい香りですね」。
私も反射的に
「高野豆腐煮ているんですよ。いい香りでしょう?」
と応えると、ちょっと和んだ雰囲気になりました。
と、
先輩格は、気を取り直したように、
布教の決まり文句を並べながら聖書の話を始めました。
私は、きりの良いところで、
「私もカトリックの洗礼を受けているんですよ。うちは父方が隠れキリシタンで、母方は浄土真宗、父方の実家は、仏壇の裏にロザリオが置いてあるような環境でね。仏陀もジーザスも私にとっては、同じ先生。」
と話を始めると、先輩格は布教の話を忘れて、ポカーンとなりました。
キリストも仏陀も預言者。神と呼ばれる自然の摂理、天の運行は、たったひとつ、それらを分かりやすく説明してくれたのがモーゼであり、キリストであり、仏陀なんです。
と、私は高野豆腐の香りが充満する玄関でとくとくと話を続けました。
すると、先輩格も、後輩も、なんとなく納得したようで、
ありがたいお話をありがとうございました。
と、布教のことは忘れて、平和な表情に包まれて去って行きました。
これで何度目になるのだろう?
「エホバの証人」と「ものみの塔」の布教のおばさんに説教をしたのは。いつも同じような話をしているので、覚えていませんが、結構な回数になると思います。
おばさんたちが、自分たちが信じていることで幸せだったら、こちらとしてもとやかく言う筋合いの話ではありませんが、彼女らが単純に信じている聖書の解釈は、意外と脆弱。聖書史的、歴史学的なつっこみ方をすると、驚いたり、不安になるところを何度も見ています。
ですから、少しでも、彼女らの今後のためにと思っていつも説教をしています。
と言っている自分も、なんとなく、自分に説教しているようで、襟を正すことになります。
宗教とは自分の外の世界の事であって、最も大事なのは、自分の内側の平和。
本音は自分の内側、建前は外側。
教義は他の宗派や宗教との差別化のための方便であって、自分の内側とは関係はありません。
ですから、宗教がうまく生活に根付いているところの人達は本音と建前をうまく使い分けます。イタリア人、メキシコ人、インド人を見れば分かります。それが下手な代表が日本人。真面目に原理主義的になってしまいます。
精神的な世界を「勉強しよう」、「理屈で分かろう」とするからです。
どこを調べても、回答がない事だらけです。
世の中のほとんどのことは「分らない」世界。
それらの辻褄をあわせるためにも、本音と建前を使い分けることは大事です。
本日もおばさんたちに説教したことで、いろいろと考察することになりました。人に教えるということは自分に教えること。ヨーガの先生でも、そう言う方は多いです。
そう言えば、高野豆腐。高野山が起源。
仏陀がおばさんたちを導いたのかも。などと妄想に耽っています。

 

 

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